[特集] ADJUSTER-21 Chapter.2.1 Salvage 命がけで救い出したデータ

Chapter2 Salvage

命がけで救い出したデータ


もはや想定外ではない。現実だ!

2年前に登場いただいた、仙台のRDVシステムズ、松本社長にお話を伺おう。かつての社屋は地震で壊滅的被害を受けた。が、ちょうど震災の数ヶ月前、都心部でも空き部屋があると聞き、移転したばかり。判断が遅ければ今こうして営業していられるか分からないところだった。
「もう、凄いものでしたよ。復興なんてまだまだ先の話です。大変ですよ、こっちは。揺れた時は東京で会議の最中でした。まさか地元仙台が震源地だとは思わなかったですね」 会議でいざ本題に入ろうかというその時に揺れた。仙台には社員一人だけ残っていたが電話が繋がらない。心配した知人たちからはメールがたくさん飛んで来る……。カップ麺をひと月分買い求め、新潟経由で仙台へ。帰路には18時間を要した。
「私はいいですが、人によっては着の身着のままで放り出され、雪まで降ったのだから堪りませんよね」
多賀城市で津波に遭遇した知人は、屋上で遺書を書き出したという。正に地獄絵図だったのだと思う。
「阪神大震災も見てきましたが、この津波による被害は比較になりません。仙台は湾岸だけですから復興はまだ早いのですが、他の地区は酷いものです」
セキュリティが切れてドアが開かなかったり立駐が動かないのには困りましたよと苦笑されるが、家ごと失った方々とは比べるべくもないのだとも。
全国の拠点の管理のため、氏の出張は日常的だ。しかし空港も閉鎖したこの春は新幹線が復帰するまで東京まで出てから飛行機で各地へ出向かねばならなかった。一方でオフィスには食料品や衣類が山積みに。農家では畑が海水に浸かったため、作物ができない。食料品は重宝したようだ。
「何から手をつけてよいのやら分からない」という時に、後ほど登場いただく阿部氏から打診があった。
「『津波でデータをやられていると思うので、なにかできることはないだろうか。(私には)仲間が多いだろうから声をかけて頂けないだろうか』と言われるんです。僕はデータ復

旧の必然性には気づかなかったですよ」
会社ができた時から知ってはいたが、こんなことでもなければ絡むことはなかったかもしれないと言う松本氏と阿部氏。二人とも仙台- 東京を行ったり来たりで連絡もつき辛い中、Facebookが役に立った。余談ながら、テレビは東京目線、電話もままならぬ中では、ネットが有意義さや価値を生むことに多くの人が気づいた。
商売が、街が止まっている。病院ではカルテが全部流されてしまった。怪我人、病人の診察もままならない。もはや想定外ではすまされない。 嫌でもこれが現実なのだ。
「皆に見に来いと言っています。テレビで見るだけで分かった気になってはいけないと」 確かにそうだ。自分の目で見て確かめないと、この震災の規模は分からない。そして可能ならばボランティアに参加して欲しい。「頑張ろう」ではない。被災者が頑張らずにすむよう、我々が動かなくては。

 

救わなければゴミだった、1000台のサーバとパソコン


 
データ破損。通常であればともかく、今回は手を挙げる業者も人もほとんどいなかった。と言うよりも、海水に浸かり泥を被り、地面に叩き付けられたそのHDDが、よもや生きていようとは誰も思わなかった。大切な大切な、かけがえのない家族の写真が納められたHDD。もう、その中にしか存在しない連れ合い…。それらは消えてしまった。諦めていたというのが正解だ。前ページの写真を見て頂けばそれが分かるはず。この状態からデータが救い出せるなどと、誰が思うだろうか?
ところがだ。
不可能を可能にした男がいた。それが松本氏が賞賛される阿部氏である。「生まれ育った地元がこんな状態になってしまった…。何か役に立つことができないだろうか」
仙台に生まれ、今は東京にオフィスを構えるデータサルベージの阿部社長は胸を痛めた。結果的には、同社は夏までに千台のサーバーとパソコンを救った。そうでなければゴミになっていたものだ。「てんてこまいでして…」という言葉に大変さが忍ばれる。震災を知るとすぐに帰省し活動を開始。まず行政、病院に伺い、とにかくデータを救い出したいとアピールした。地元に貢献したいという思いももちろんあった。「無償でやらせてほしい。救えるデータがあるはずなんです」
本業であるデータ復旧の技術を活かせば、必ず救い出せるデータはある。しかし、その声はなかなか届かなかった。であれば自力でやろう。そうして阿部氏は、仙台駅に近いオフィスで貼り紙による告知から始めた。「東北地方太平洋地震 緊急データ復旧センター」と貼り出されたそれは、たまたま通りがかった河北新報社の記者の目に留まる。
「その2日後には河北新報の生活欄に載りました。2度めは写真付きでの掲載で反響は大きかったですよ」とは、仙台支社の相沢氏。阿部社長の右腕だ。
待っていただく椅子もなかったので急遽用意した。「お客様がデータ復旧屋に並ぶなんて前代未聞でしょうね」と、今では少し笑みもこぼれる。
「NHKに取り上げていただいてからがまた凄かったんです。持ち込まれるのは一人一台ではなく10台20台。おそらく日本で一番ハードディスクを外したでしょう。しかし受付からサポートまで二人しかいないですからね」
合計3度掲載された記事と、テレビ各局での放映の反響は凄まじかった。

救われた107人の思い出


これら千台のパソコンを救うきっかけとなったのが、塩竈市で写真館を営む柴原氏との出逢いだった。
卒業式まで撮影された卒業アルバムは珍しかろう。津波の様子までもが載っている。
「大人になった時、このアルバムがどれほど貴重なものであるかが分かってくれれば」柴原氏は、そう振り返る。
入学から卒業までを追い延べ1万枚を撮ってきた。授業風景、遠足、修学旅行…ほとんどの行事に参加し、撮影をしてきた。だからできあがったアルバムには生徒達の姿が躍動している。自宅にあった写真がすべて流され、これが唯一の想い出となった子もいる。
そのアルバムとなるはずだった貴重なデータが入ったHDDが水没。
「年老いた時に想い出が蘇るでしょう」という思いで、柴原氏は復旧先を探した。金をかければ復旧できることは知っていたが、業者によってはリスクもある。震災直後、撮影データが破損して困っている旨の記事が時事通信に掲載されたのを見た友人達が探し当ててくれたのがデータサルベージであった。
ガレキの街を自転車で2時間半!柴原氏は仙台まで走った。
「初めて気づいたのですが、塩竈から仙台まではゆるい坂なんですよね」と苦笑い。そのうえ路面は凍っているから命がけだ。しかし「命より大切なデータですからね」と胸を張る。
公共的なデータは無償で復旧させると決めていた阿部氏は、「107人の写真が入るアルバムは107人の想い出が詰まった公共的なものである」と判断。無事にデータは蘇った。「赤字でも仕方ない。責任は果たさねば」と覚悟していた柴原氏は阿部氏の申し出にとても感激された。
津波が来た時、柴原氏夫妻はカメラ2台と愛犬を抱えて高台へ逃げた。店内は高さ1、5mの水に浸かり、失った機材は数千万円の被害に上ったが、嬉しかったのは仲間達からの義援金だ。復興と再開に欠かせないのは現金なのだ。ボールペン一本であれ、お金がなければ手に入らない。行政は配れない理由を考えている猶予などないはずだ。方法はいくらでもあろう。いつになるか分からない公的義援金より、知人・友人からの助けがどれほどありがたいことか。
数百ギガもの写真のデータが来るのは予想外だったという阿部氏は、これを期に東北大の教授にも救援を求められたのだ。
柴原氏同様に95%以上が水没だったHDD。復旧で肝腎なのはHDDを外してから。孤立した仙台からは東京に送れず、ひとまずはこの場所ですべての作業を行った。再び松本氏に伺う。「中古でよいのでHDDを用意して頂けないかとも頼まれましてね。溜めてあったHDDを送りましたよ。消すのは簡単だけど救い出すのは難しいですよね。彼は本当に一生懸命やってらっしゃいましたよ」
チラシの新聞折り込みもされた。
「仲間がいるから助けてやるよ」と快く力になっていただいたのはとても感謝に堪えないと阿部氏は振り返る。
「ビルのオーナーが2階を貸してくれたので大変助かりました。広いフロアに、これもお借りした洗浄機などを並べて作業しました」
不眠不休でハードディスクを洗い、そして粛々と復旧にあたる日々。
「私は帰してもらえたのですが、社長は帰りませんでしたからね…」と相沢氏。このピークがひと月以上、ゴールデンウィーク前まで続いた。そこで終わった訳ではなく、持ち込みから配送へと移り、気仙沼などからも送られてくるようになった。後には『ビデオカメラの復旧』も告知したのでその依頼も増えて来た。ハードディスクを使っている以上、要は同じである。フロッピーやCDなどもあったとか。メディアであれば基本的には何でもオーケーで、SSDやUSBメモリーは物理的損傷がないだけに復旧率は高い。
作業はまずHDD自体の洗浄から始まる。次にプラッターの洗浄。その後クローンを作り、そこからデータを読み出す。世界に一つしかない唯一無二のマスターディスクは絶対に触らない。これが壊れてしまってはもう、どうにもならない。認識はするがデータが出ない事もある。転倒が先か水没が先かによって壊れ方も異なってくる。サーバーはRAIDになっているから2個3個読み取れないとまともなデータとして引っ張れない。苦労の連続だ。「今回のは完全に水没して腐食してますからね。正直大変でした。お渡しする時、泣いていたご家族もいらっしゃいました」
普段ならば不可と判断するものでも「流された子供の写真なんだ」と言われたら誰が断れようか。涙を流されれば疲れも吹っ飛ぶ。

 

見えてきた意外な事


さてプラッターを読めなくなるのが一番の問題であるが、見た目酷くてもプラッター自体は無傷だというケースもある。東北人の性格として『一度断られたら諦める』という傾向があるようで、まだここを知らずに諦めている方もいらっしゃるはずだ。
同社の沼田氏は強く言う。
「水没してもデータは救えるんです。無理だと決めつけず持って来てください」と。今、東京のオフィスには、そのようにして持ち込まれたたくさんのHDDが積まれている。
「可能性があるうちは断らずに受けています。今は復旧率25%だがもう少し上がるでしょう」と。たとえ時間はかかっても、その価値には替えられない。「しかしデータというものは意外と出てくるものなんですね」とも。最初の1週間では80%が救えた。翌週は40%。以降、毎週半減して行った。もし真っ先にデータを救い出せていたならば失われた大半が復旧できた計算になる。現実にはガレキをひとまず取り除き、生活を確保してからだったので、復旧する側から言えば、この失われた一ヶ月の空白は大きい。が、致し方ない。命と生活こそが最優先なのだから。
ようやく問い合わせが落ち着いたのは7月半ば。ともかく、データサルベージの猛者たちは、思い出を救い出すために努力を惜しまなかったし、直後に始めたという価値は計り知れない。
どうしたら破損を少なくできるだろうか。バックアップが如何に大事かというのは分かっているが、それが本体の隣に置いてあったので一緒に流されてしまったというケースは多い。サーバーは極力高い階に置くのがよいが、しかしそのような対策よりも、遠隔地
に置くのが確実に違いない。
それでは、オリジナルとバックアップ。救えた方はどちらだったか。答えはオリジナル側だったが理由が興味深い。バックアップ用に使われる大半がSATAで、届いたものはやはりSATAだった。オリジナルはSASだ。安価なSATAではなくSASの方が堅牢性が高いので復旧率も高かったことが実証されたのだ。SASは寿命だけでなく津波にも強かった。皮肉なものだがこの震災がなければ分からなかったことだろう。腐食したSATAからはチップがかなり外れてしまう。SASの方が基盤自体も確実と言える。メーカー別、機種別のデータを取っており、最終的にはしっかり検証される予定だ。
「高いので普通はあまりお勧めしないのですが、こういう事態を想定すればここは経費削減しない方がよいのでは」とは沼田氏。
繰り返すが同じラックに入れてあっては無意味だということもキモに命じておいてほしい。

 

ハードディスクが足りない!


復旧との戦いはまだ続く。この本がお手元に届く10月の時点でも終わってはいない。そして復旧にはHDDが不可欠なのだから常に不足しているのである。ディスクが生きていても同形HDDがなければ救えるものも救えない。提供できるという方がいらしたら、ぜひ協力していただきたい。〈どれを〉ということはなく、あらゆる型番が必要とされるので、とにかく何でもいいので送ってほしい。
復旧料金はどうだったのだろうか。パソコンの場合、定価で30万円である。(サーバーはケースによる)NGならば0円だ。HDDを買うだけでコストがかかる以上、ディスカウントして受けていては赤字が必至だ。しかし、現実にはケースバイケースで、一切を失った人にとても定価でとは言えない。平均額を出せば10万円だと言う。ただ、ボランティア精神であるにせよ、自らが潰れてしまったのでは元も子もない。
「リカバリー業界は単価が下落傾向にあります。料金がブラックボックスになっていたのが一因ですが、今後はここを明朗会計にしていきたいですね。高価なのにはそれなりの理由がありますから、明確にして理解をいただきたいと考えています」と阿部氏が言うように、今後はしっかりした料金体系にしていくのが業界の課題であろうか。
大船渡から乏しいガソリンで走って持ち込まれた方もいらした。皆必至なのだ。だが某公共機関のHDDを救った際は困った問題があった。個人情報セミナーを受けないと受付もできないというのだ。社長自ら受講し事は収まったものの、一刻も早く救い出したいにも関わらず、行政上の障害がここにもあった。非常時くらい超法規的な対応を望めないのか? データ復旧のために国家的体制が必要だと痛感し、今は国にも訴えかけていらっしゃる。
「世界で一番洗浄しましたよね」と相沢氏が言うように、世界初と言ってよい海水や汚泥による被害からのデータ復旧をここまでやった企業はないはずである。同社はロシアとイギリスのデータリカバリー企業など海外からも注目され始めた。ハーバード大学から今回の実績をデジタルアーカイブとして残さないかとのオファーもある。
「できたのはいろんな方からの応援があったからです。みんな助けてあげたいという、いいムードがありました。
もしどこかで震災が起きたらすぐに飛び来んでいきたいです。喜んでいただけるのが一番嬉しいのです」
阿部氏の言葉に胸が熱くならないだろうか。だが、聞いて感心している場合ではない。

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