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[特集] ADJUSTER-21 Chapter.1 Disaster その後 何がどうなったのか?

2012/03/11

パソコン整備士協会 会報誌 ADJUSTER21

 

Post3.11 震災、その時。そしてこれから。


こんな泥だらけのパソコンは見た事がない!

東日本大震災は、多くの人命と共にパソコンをも破壊した。

それら1,000 台の中から「無理だ」と言われたデータを救い出す。

これを決して諦めなかった男たちがいた。

この体験を次の世代に受け継いでいこう。

そして来るべき次の震災に備え、我々は何をすべきなのか。

 

 

Chapter1 Disaster その後 何がどうなったのか?


1000から1へ

 

 1本だけ生き残った、陸前高田千本松原。千本松から一本松へ。風光明媚で栄えていたこの辺り一面は、今や見渡す限りの廃墟である。かつての繁栄は見る影もない。想像を絶する破壊が行われたのだ。東北の力も、3/ 10までを千だとすれば3/ 11にはこれが一になってしまった。だが消滅はしていない。希望のシンボルとして知られる一本松は、この象徴であろうか。

 震災から5ヵ月を経た東北の地を、暑い盛り、終戦記念日に車で回った。仙台から海沿いに北へ向かうと、だんだんと被害状況が見えてくる。建物の外観が残っている塩竈は、あまり被害がなかったように見える。しかし、現実はこうだ。駅前の通りであっても、夜に灯りが付くのはポツリポツリ。ほとんどの家に住む人はいないのだ。取り壊しも始まっている。箱だけ残っていても中はぐちゃぐちゃだ。石巻では港へ行く道が絶たれていた。気仙沼港の変わり果てた姿には言葉をなくした。だがこれでも充分片付いたのだと聞いたし、仮設の商店街計画も進んでいるようだ。基礎だけが残った大船渡の住宅地で見かけたモデルカー。…。悲惨さを列挙すれば枚挙に暇ないが、一方では命を救った歩道橋がある。道一本隔てて景観が違う。
何が運命を分けたのか…。
「孫も娘も流されてしまった…」
なにげに聞こえてきた老婆の言葉に胸が張り裂ける。悲痛の初盆を迎えているのだろう。あらゆる県警のパトカーを見かける。たくさんのボランティアの方々や全国自治体や警察からの応援を受けている。そのせいなのか、ホテルは満杯、レンタカーはGW並みの忙しさだと言う。
たまたま震災の日に南三陸のホテルで撮影をしていたというカメラマン佐藤彰展氏は、迫り来る津波を眼前で目撃した。家族が住む街が流されて行くのを見ながらも、宿泊客の対応を冷静にこなされていたホテルの従業員方の姿を見、涙を止める術を知らなかった。冠水等で道路が寸断されたため、彼自身、三日間家に帰れず電話も通じずで家族には非常に心配をかけた。
宮城県では7万軒以上の家屋が消えた。しかし8月の仙台中心部を見る限りでは、ほとんど被害を思わせるものはない。中止になった多くのコンサートも秋になって再開されている。だが仙台市以外は復興どころではなく、未だガレキの街だ。復興の報道がテレビで流れたとしても、それはほんの一部の話。倒れた住宅や、陸に上がった『船』が至る所にある。行方不明者もまだ数千人に上る。
希望が見えなくては潰えてしまう。活気を取り戻しつつある仙台の街とガレキの街が対照的なのだ。
震災直後、仙台駅前のストリートミュージシャンは、仲間とともに炊き出しに立ち上がった。焼肉店では、ごはんとみそ汁だけではあったが無料サービスを行った。発電機があったからと、携帯の充電サービスをやった店もある。こうした、「人々の暖かさ」「何か人の役に立ちたい」という強い思いが復興への原動力となったのだろう。震災後の5カ月間で東北には100万人以上のボランティアが入った。ミュージシャンや、美容師、整体師などもいらしたとか。
「津波に流されて負けてやめるのはだめだよ。再開してそれでもダメなら仕方ないよ」と、我が子に諭され再開を決めた床屋さんがある。かかった経費の回収はおそらく不可能だろう。だが負けたくない一心なのだ。
地震発生から20分以内に避難するのが生存の限界と言う調査結果がある。すぐに行動しなければならない。今も地震警報が鳴れば、深夜であれ飛び起きて避難所へかけて行く。24時間スーパーに買い出しに行く人もいる。ガレキはなくとも3.11以来、落ち着いて寝られる日はないのだ。
被災地の治安が海外メディアで絶賛される程、必ずしもよかった訳でもない。報道されずとも詐欺や略奪もあったと聞く。だが……。

 

 

壊れたパソコン、消えたデータ


IT関係の事業を営み、当協会の会員でもある栗和田氏は、閖上地区からほど近い名取市で地震にあった。家財道具は倒れ、ガスも電気もストップ。家屋の残骸や車が流されてきた。仙台市内まで行けば電波が入るが自宅では携帯も繋がらないため親戚とも連絡が取れない。インターネットにも繋げず、情報源はラジオだけだったとか。

「どう行動したらいいか分からない」
深夜、体育館で体験する余震。天井の照明が揺れると悲鳴が起きる。熟睡とは程遠い1週間の避難生活が続いた。幸い、自宅マンションに早く戻れたが、「パソコン整備士としてなんとか手助けをしたい気持ちはあったのですが、動く事もできず、それが残念です」と思いを吐露される。
「マスコミは起きた事を伝えるばかりで、これからどうするかを全く伝えてくれない。今後、どう復興して行くかを行政が考えて欲しいんですよ」
全滅した機械類では今も業務再開のメドは立たない。会社を建て直すための助成金を申し込んだが、『決算書の提出』を求められた。しかしそのデータは壊れたパソコンの中だ。出しようがない。途方にくれてしまう…。それどころか、あろうことに疑われる始末。あんまりではないか。被災者証明を取るだけでもひと月かかるのだ。
「会員同士でのネットワークを活用し非常時には助け合う体制ができるとよいですね」課題が見えてきた。データは、壊れたパソコンはどうなるのか…。

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